@article{oai:dcu.repo.nii.ac.jp:00000537, author = {鈴木, 文治}, issue = {9}, journal = {田園調布学園大学紀要, Bulletin of Den-en Chofu University}, month = {Mar}, note = {3.11 東日本大震災は日本社会の様々な領域で,過去のあり方に対する鋭い問いかけを起こし,その後の社会形成や生き方への転換点を与えるものとなった。それは宗教のあり方においても同様である。宗教の根源となる教義や社会の中で果たしてきた役割が深く問い直されている。 特に,震災や事故,戦争や民族紛争,貧困や飢餓,病気や別離,裏切りや報いなき日々など個人の力では解決困難な事象,それは一般的に「悪」と呼ばれるものであるが,その理解や位置づけが求められている。3.11 以後の世界には,大規模な戦争や紛争,事故や災害,またそこから派生する多数の人命の喪失,飢餓や貧困などが起こっていて,人間の知恵や力では解決不可能と思われることが頻繁に生じている。このような問題は,キリスト教の教義そのものへの問い直しが今ほど求められている時代はない。 古来,神の絶対性,神の摂理とこの世における悪の存在の問題は,神義論という名称で呼ばれ,様々な形で論述され説明されて来た。即ち,神が世界を創造し,正にそのことを善きこととなしたもうた事柄(創世記1 章4,10,12,18,21,25,31 節)と,そのような神の御業であるこの被造物の世界に,何故悪なるものが存在するのか,という神義論の問題は,大別するならば,神の絶対性を是認しないことによってのみ,悪の存在を説明しうるという方向と,むしろ神の絶対性なるが故に,この世の悪は存在せず,むしろ悪が存在するかの如く認識する我々人間の側に根本的な問題があると解明する方向という,二つの方向の間で揺れ動いてきた。 神学史的に見るならば,教父時代には護教的意図のもとに,非存在としての悪という考えを立て,正に一方を立てるが故に他方を切り棄てるという試みで理解しようとした。しかし,これは明らかにグノーシス及びマ二教等の二元論的思考の影響であろう。 しかし16 世紀,宗教改革者ルターによって,神を正当化しようとする如何なる神義論の試みも不可能な企てであるとして否定された。即ち,人間が神の義を問うのではなく,神によって人間の義が問われていることが重要であり,たとえ神の義が理性に反する様なことであろうとも,信仰においてこそ求められなければならないと説かれたのである。 だが,このようなルターの神義論の否定は,その後の近代合理精神において貫徹されることなく,再び論議の対象とされるようになった。例えばライプニッツにおいては,この世は全き善であり,悪は善になる可能性を持つもので,単に善を引き立たせるものに過ぎないとして,神の絶対性を擁護しようとしたのである。 それでは現代の神学者や宗教哲学者はこの問題をどのように捉え,どのように論じているのかを探ってみようというのか,本論の主旨である。 ここで取り上げてみたいのは神学者K.バルトと宗教哲学者N.A.ベルジャーエフである。もとよりこの二人の思想家にとって,根本的に主題とするべき問題意識も,またそこから由来する信仰も全く異なるものであり,比較を試みること自体,殆ど不可能と言ってもいいだろう。文体からしても,バルトは緻密な論文体であるのに対し,ベルジャーエフはアフォリズム調であり,ベルジャーエフにおいては,一つの事柄が重点的に語られることがあまりないということ,さらにベルジャーエフのバルト批判が,バルト神学の構造全体に向けられていることから,具体的な事柄に関する批判が全くと言ってよいほど述べられていないこと等々の理由によって,両者の根本的相違点,対立点を探ることは極めて困難である。 しかし問題を神義論の一点に絞った場合には,そのような困難さを通りこして,両者の著しい相違が,そしてそれの基となっているであろうと思われる信仰理解と,思想構造全体における根本的相違が,明らかにされる。 さらに,ベルジャーエフとバルトにおける神義論の問題,即ち,UngrundとDas Nichtigeの問題は,単に二人の思想家における根本的相違という点に留まらず,むしろ混迷する現代のキリスト教信仰の本来あるべき形態を指向することになるであろう。}, pages = {37--88}, title = {<研究論文>キリスト教神義論の一考察:N.ベルジャーエフの‘Ungrund’とK.バルトの‘Das Nichtige’をめぐって}, year = {2015} }